まだ旅行のこと書いてます。
2回に分けて、長春に行った理由を書いてみます。
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僕の祖母は今年の誕生日を迎えて82歳になりました。大正14年生まれです。生まれは熊本県で小学校に入る前から満州で育ちました。終戦までを満州にいたので、「若いとき」と呼べるような時代の大半を大陸で過ごしたことになります。
満州の話は、僕が小さいころからたくさん聞いてました。中でも最も印象的なのは「新京の住所」の話です。
満州の首都、新京にいたときの祖母は幼稚園入学前。満州鉄道の社宅である団地に住んでいたのですが、あるとき家の近くで遊んでいるうちに迷子になってしまって、近所の人に連れて帰ってきてもらいました。同じ形をした集合住宅が立ち並ぶ社宅団地だったので、幼い子にはわかりにくかったのでしょう。それ以来、祖母の両親は祖母に、住所を暗誦させました。
「新京花園3丁目30号の1」
困ったことになったらこの住所と名前を言うように祖母はしつけられました。そして70年以上経った今も、祖母はそのフレーズをちゃんとそらで言えるのです。三つ子の魂百まで、はどうやら本当のようです。覚えてる祖母自身も「よう覚えちょるわ」とのこと。
「満州」というところはもう存在せず、今は中国であること、日本ではないけれどでも日本のような、でも明らかに「大陸」の生活環境だったことも教えてくれました。外国に行ったことの無かった僕には「大陸」というのもうまく想像できず、「日本でない所なのに、なぜ日本語で生活ができるのか」など難しいことだらけでしたが、とにかく「遠くて寒い所にばあちゃんは住んでたんだ」、と理解しました。
「新京はムカシのところ」「満州はもうない」「愛新覚羅溥儀」「新京は現在の長春」「冬は凍った川でスケート」「おいしいピロシキ」「二重窓」「北京から飛行機で一時間半」「日本のものよりずっと幅の広い線路の上を走る列車」などなど、祖母から聞いたことや歴史の時間に知ったこと、自分で調べた知識の断片が積み重なって、長春に行ってみたくなりました。そこに祖母の知り合いがいるわけでもないし、祖母がどうしても今の街の様子を見たがったのでもないのですが、自分の目で見たかったのです。
長春に行くことが決まってから、まず新京の地図を探しました。幸い、ネットで簡単に昭和12年当時の新京の市街地図が手に入りました。祖母が新京にいたのは昭和3~8年くらいと思われるのでまあ、だいたいOK。さっそく地図の中に「花園3丁目」を探しますが、見当たりません。市街地図とはいえ全ての地名は載ってなかったのです。だた手がかりとなるのは線路の横に書いてある「満鉄社宅」の表示があるエリア。そこだけ周辺とは違って住宅地を示す色に塗られてます。新京市内に、他に満鉄の社宅がなければ、これが昔の祖母の家のあった辺りですが、自信はありません。
地図を持って今は別府に住む祖母を訪ねてみました。地図を広げて見せたのですが、「あらー、わからんねー」とのこと。かなり拍子抜けでした。祖母の家に向かう途中は、地図を広げた瞬間、祖母は地図に見入り、あれやこれやと思い出を語り、「ここ!ここ!」と指をさすだろうと想像してたのに。小学校入学前だし、70年以上も前だし、そりゃ当然か。なんとか得られた情報は「学校に行くときに川を渡るのだが、冬は凍った土手を滑り降りて遊んだ」「近くに広い野原があった」「街の中心部までは遠かった」。でも多分、その線路脇の「満鉄社宅」が、それであろうとのこと。近くに橋(でも線路を渡るための「跨線橋」)はあるし「ゴルフ場」(野原?)はあるしということで、その「満鉄社宅」が「そう」であることにします。
次回に続く
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Comments (7)
こういう身近な歴史っていいね。おばあさまがどんな生活してらしたのか、想像しちゃうね。
続きを楽しみにしています。
私の実家のお向かいさんも満州引き上げ者だったようで、
「満州」と呼ばれてました。(これ、どうよ?)
なかにし礼の「赤い月」を読んだことがあるのですが、
その辺のイメージと重ね合わせてKenさんの記事、読んでました。
70年前にコンクリート製の集合住宅ってだけでびっくりでした。
しかもスチーム暖房の。
(あ、表参道の同潤会アパートも??)
楽しみにしてくれてありがとうございます!
はかしぇさん、
「赤い月」、探してみます。祖母はわりと苦労しないで帰ってこれたそうなんですが、やはり複雑な思いはあるみたいです。
中国旅行についての最近の情報です。